【登別温泉】地獄谷だけじゃない…病の妻を救った湯と円空の観音像に残る物語

北海道を代表する温泉地、登別温泉。白い湯けむりが立ち上る地獄谷や、温泉街に並ぶ鬼の像を思い浮かべる人も多いでしょう。
けれど、登別温泉の歴史をたどってみると、そこには「地獄」の物語だけではなく、病に苦しむ人を救った湯と、それを見守る祈りの物語が残されています。なぜ、これほど山深い場所に温泉街が生まれたのでしょうか。そして、そこにはどんな人々が関わってきたのでしょうか。
今回は、登別温泉の始まりから地獄谷の伝説、そして円空が刻んだとされる観音像まで、現在の景色につながる物語をたどってみます。
登別温泉は、昔から知られていた湯だった
登別温泉の歴史をたどると、現在のような温泉街ができるよりも前から、この地に湯が湧いていたことが分かります。江戸時代の記録には、登別の川上から温泉が湧き出していたことが記されており、1790年ごろにまとめられた最上徳内の『蝦夷草紙』が、登別温泉についての古い記録の一つとされています。1845年には探検家の松浦武四郎も登別を訪れていますが、そのころは道路も十分に整備されておらず、温泉の流れる川にむしろを敷いて入浴したと伝えられています。
つまり、現在のように旅館が並ぶ温泉街が最初からあったわけではありません。山の中に湧く湯そのものが、登別の物語の出発点だったのです。当時の登別では温泉だけでなく、地獄谷や大湯沼周辺で硫黄の採掘も行われていました。湯と硫黄を生み出す荒々しい大地は、人々にとって恵みであると同時に、簡単には近づけない場所でもあったのでしょう。
そんな場所に本格的な温泉地をつくろうとした人物が、後に「湯治の祖」と呼ばれる滝本金蔵でした。

妻を救った湯が、温泉地の始まりになった
登別温泉の物語を語るうえで欠かせないのが、江戸の大工職人だった滝本金蔵と妻・佐多です。金蔵は幕府の派遣によって蝦夷地へ渡り、幌別で駅逓所の建設などに携わっていました。そのころ、妻の佐多は重い皮膚病に悩んでいたとされます。
登別に湯が湧いていることを知った金蔵は、山道を分け入って温泉の近くに湯小屋を建て、妻の湯治を続けたと伝えられています。そして、佐多の病が快方に向かったことから、この湯を多くの人にも利用してもらいたいと考えるようになったとされています。
この物語は、現在の第一滝本館にも「愛妻の湯」の起源として受け継がれています。もっとも、現在の登別温泉の形成には金蔵だけでなく、1857年に岡田半兵衛が湯治用の宿泊施設を建てたことなど、複数の人物の働きが関わっていました。1858年には金蔵が温泉宿を建て、道路を整備するなど、本格的な温泉地の基礎が形づくられていきます。
滝本金蔵が変えた「山奥の湯」
当時の登別温泉は、気軽に訪れられる場所ではありませんでした。そこで金蔵は、温泉へ向かう道の整備にも力を注ぎ、後には温泉宿を発展させていきます。1881年には私財を投じて新道を開削し、1890年代には馬車による送迎も始まりました。
温泉そのものだけではなく、「人が湯へ行ける道をつくる」ことまで進めたことが、登別温泉の発展に大きな意味を持つことになります。
ひとつの湯治場から、名湯へ
登別温泉が全国的に知られるきっかけの一つとなったのが、1905年の日露戦争です。この年、登別温泉とカルルス温泉が日露戦争の傷病兵の保養地に指定され、それをきっかけに「名湯」として広く知られるようになりました。湯治客が集まり、旅館や土産物店なども増え、現在につながる温泉街の基盤が形づくられていきます。
こうして見ると、登別温泉は最初から観光地だったわけではありません。一人の妻を救いたいという願いから始まった湯治の物語が、人々の療養の場となり、やがて全国から人が訪れる温泉地へと成長していったのです。

なぜ登別には「地獄谷」があるのか
登別温泉と聞いて、多くの人が思い浮かべるもう一つの景色が地獄谷です。日和山の噴火活動によって生まれた爆裂火口跡で、直径は約450メートル、面積は約11ヘクタール。谷には無数の噴気孔や湧出口があり、白い煙を上げながら熱湯が湧き出しています。
その荒々しい姿を目の前にすると、なぜ「地獄」という名前が付いたのかも想像できます。泡を立てて湯が煮え立ち、地面から煙が噴き出す風景は、かつての人々にとって自然の力そのものを感じさせる場所だったのでしょう。そこから、「鬼の棲む地獄」というイメージが生まれ、現在の登別温泉を象徴する物語へとつながっていきました。
現在の温泉街に鬼の像が立ち、閻魔大王や鬼をテーマにした祭りが行われているのも、この「地獄」のイメージと深く結びついています。

地獄のすぐそばに残る、円空の観音像
ところが、登別温泉の歴史をさらにさかのぼると、地獄谷のイメージとは少し違った物語が見えてきます。それが、江戸時代の僧・円空と観音像です。
円空は全国を行脚しながら数多くの仏像を刻んだ僧で、1666年には道南各地を巡り、鉈を使って観音像を刻んだとされています。その一体が登別に残されているのです。現在、その円空作とされる観音像は登別市の指定文化財となっており、地獄谷展望丘の一角に設けられた社に安置されています。
なぜ円空の観音像が登別にあるのか
円空がなぜこの地で観音像を刻んだのか、その詳しい事情までを確実に説明できる史料が残っているわけではありません。ただ、江戸時代の登別にはすでに温泉が知られており、硫黄の採掘も行われていました。そんな山あいの土地に、旅を続ける僧が立ち寄り、仏像を刻んだという物語が現在まで残されています。
その観音像は後に山火事で一時行方が分からなくなりましたが、再び発見され、現在の場所に安置されることになりました。
地獄谷という荒々しい場所のすぐそばに、人々の祈りを受け止める観音像が残っている。
この組み合わせを知ると、登別温泉の景色が少し違って見えてきます。

「地獄」と「癒やし」が重なる温泉地
登別温泉には、もう一つ興味深い物語があります。1861年ごろ、硫黄採掘に関わっていた南部藩の家臣が刀傷から眼病を患い、温泉で目を洗ったところ回復したため、感謝して薬師如来像を奉納したと伝えられています。その像を安置する薬師如来堂が建立されたとされ、ここにも温泉と信仰が結びついた物語が残されています。
もちろん、こうした治癒の話は伝承として受け止める必要があります。しかし、重要なのは、登別では昔から「湯によって病を癒やした」という物語が繰り返し語られてきたことです。
妻の病を治すために湯治を始めた滝本金蔵の物語、眼病が治ったと伝わる南部藩士の物語、そして山あいに刻まれた円空の観音像。それぞれの時代や人物は違っていても、そこには「この湯に救いを求める」という共通した思いがあります。
一方で、地獄谷からは白煙が上がり、鬼の棲む場所という伝説が生まれました。地獄のような景観と、人を癒やす湯。 一見すると正反対に見える二つのイメージが、登別温泉では同じ場所に重なっているのです。

鬼の物語は、今も温泉街に残っている
登別温泉の「地獄」の物語は、昔話として消えてしまったわけではありません。現在も温泉街では「登別地獄まつり」が開催され、鬼みこしや鬼踊りなどが行われています。地獄谷のイメージが、地域の文化として受け継がれているのです。
また、節分の時期に行われる「登別温泉湯まつり」では、閻魔大王の使者とされる赤鬼・青鬼の「湯鬼神」が温泉街を練り歩き、厄払いと無病息災を願います。温泉の恵みに感謝し、その湯がこれからも尽きないことを願う祭りでもあります。
ここが、登別温泉の面白いところです。
鬼は単なる恐ろしい存在として描かれているのではありません。地獄谷の力を象徴しながら、厄を払い、人々の健康を願う存在にもなっているのです。かつて人々が恐れた大地の力は、いつしか温泉の恵みと結びつき、登別ならではの文化として受け継がれていきました。

登別温泉を歩くと、歴史の見え方が変わる
登別温泉を訪れたら、まず地獄谷の荒々しい景色に目を奪われるかもしれません。しかし、その景色だけで帰ってしまうと、少しもったいない場所でもあります。
地獄谷から立ち上る白煙を眺めながら、ここで硫黄が採掘されていた時代を思い浮かべ、その湯を求めて山道を歩いた人々の姿を想像してみる。さらに、妻の病を治そうとした滝本金蔵や、鉈一本で観音像を刻んだとされる円空の物語を重ねると、同じ景色が違って見えてきます。
そして、地獄谷の近くに残る観音像に目を向ければ、そこには「地獄」の物語だけではなく、この土地に祈りを寄せてきた人々の姿も見えてきます。
登別温泉は、単に温泉が湧いていたから大きな温泉街になったわけではありません。そこには、病を癒やそうとした人、湯を多くの人に届けようとした人、旅の途中で仏像を刻んだ僧、そして温泉の恵みに感謝してきた人々の物語が積み重なっています。
「地獄」と呼ばれた大地から湧き出す湯が、人々を癒やす温泉になった。
その湯をめぐって生まれた物語が、鬼や閻魔大王の文化となり、祈りの観音像となり、現在の温泉街へとつながっています。
次に登別温泉を訪れるとき、地獄谷から立ち上る湯けむりを眺めてみてください。そこに見えるのは、ただの火山景観ではありません。
一人の妻を救おうとした男の願いから始まり、湯治を求める人々の思いと、地獄や鬼、そして祈りの物語が重なってきた場所。
そんな背景を知ってから歩けば、登別温泉の白い湯けむりも、少し違って見えるかもしれません。



