【岡山城】宇喜多秀家と小早川秀秋、戦国の運命が交差した黒い城

岡山城といえば、黒い外観が印象的な「烏城(うじょう)」を思い浮かべる人も多いでしょう。現在は岡山市を代表する歴史スポットですが、この城がなぜ岡山の地に築かれ、どのような人物たちの運命を見つめてきたのかを知ると、その姿は少し違って見えてきます。

岡山城には、戦国大名・宇喜多氏による城づくり、関ヶ原の戦いで運命を変えた小早川秀秋、そして若くして亡くなった秀秋をめぐる伝承まで、さまざまな物語が残されています。さらに、宇喜多秀家が黄金を隠したという埋蔵金伝説もあり、歴史と伝説が重なり合う場所でもあります。

岡山城は、なぜこの場所に築かれたのか

岡山城の物語をたどるなら、まず宇喜多直家の時代まで戻る必要があります。1570年代、宇喜多直家は現在の岡山城につながる石山の城を本拠とし、家臣を城下に住まわせ、商人や職人を集めることで城下町の基礎をつくりました。岡山市も、直家による城下町づくりが現在の岡山の発展につながる大きな基礎になったと紹介しています。

つまり、岡山城の始まりは単に敵を防ぐための城づくりではありませんでした。城を中心に人を集め、町そのものを育てていくことが、この場所では早くから進められていたのです。そして、その構想をさらに大きくしたのが、直家の跡を継いだ宇喜多秀家でした。

宇喜多秀家が築いた「烏城」

宇喜多秀家は豊臣秀吉のもとで勢力を伸ばした有力大名で、1590年代には岡山の城と城下町を大きく整備していきました。秀家は本丸を石山から現在の「岡山」の丘へ移し、旭川の流れを利用しながら城郭と城下町を一体的に整えていきます。1597年には天守が完成したとされています。

旭川を利用した大規模な城づくり

秀家の築城で特に興味深いのが、旭川との関係です。秀家は旭川の流れを現在のように城の北から東側へ回る形に整え、川や堀を防御に利用しました。その周囲には南北に伸びる城下町がつくられ、現在の岡山市中心部につながる町の原型が形づくられていきます。

城は、ただ敵から身を守るためだけの施設ではありませんでした。大規模な城と城下町を築くことは、大名が持つ力を示すことにもつながります。豊臣政権の有力大名となった秀家にとって、岡山城は自らの力と立場を示す舞台でもあったのでしょう。

なぜ「烏城」と呼ばれるのか

現在の岡山城を特徴づけているのが、黒い外観です。天守の外壁は黒い下見板で覆われており、白い姿で知られる姫路城とは対照的な印象を与えます。この黒い姿から「烏城」という別名が生まれました。

さらに、宇喜多秀家の時代のものとされる金箔瓦も確認されています。黒い外観に金の装飾が加わっていたと考えると、現在の落ち着いた姿からは想像しにくい、豊臣時代の華やかな城の姿が浮かんできます。

関ヶ原で変わった岡山城の運命

ところが、完成したばかりの岡山城を取り巻く状況は、わずか数年で大きく変わります。1600年、天下の行方を決める関ヶ原の戦いが起こったからです。

宇喜多秀家は西軍の主力として戦いましたが、敗戦によって領地を失い、やがて八丈島へ流されることになります。秀家はその後、八丈島で長い年月を過ごし、1655年に83歳で亡くなりました。

ここで興味深いのは、岡山城を大きく築いた人物が、その城を長く治め続けることができなかったことです。戦国の世では、どれほど大きな力を持つ大名であっても、ひとたび戦に敗れれば、その運命は一気に変わってしまいました。

そして、秀家に代わって岡山城主となったのが、関ヶ原で大きな決断をした小早川秀秋でした。

小早川秀秋、21歳の若き城主

小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで戦の勝敗を左右する重要な役割を果たした人物として知られています。戦後、岡山城に入り、城の改築にも取り組みました。しかし、その城主としての時間は長くありませんでした。

秀秋は1602年、岡山に入ってから2年足らずで亡くなります。わずか21歳でした。跡継ぎがいなかったため、小早川家も断絶することになります。

秀秋が残した城の痕跡

秀秋は岡山に入った後、城の改築を進めています。現在も本丸周辺の石垣には、宇喜多秀家が築いた部分に小早川秀秋が石垣を継ぎ足して改修した跡が確認できます。異なる時代の城主による工事が、ひとつの場所に重なって残されているのです。

これは岡山城を見るうえで、意外に面白いポイントです。黒い天守だけを見ていると一つの城に見えますが、石垣に目を向けると、宇喜多秀家から小早川秀秋へと城主が変わった歴史そのものを感じることができます。

若くして亡くなった秀秋に残る伝承

21歳という若さで亡くなった小早川秀秋をめぐっては、後世になるとさまざまな伝承が語られるようになりました。

そのなかでも知られているのが、関ヶ原で命を落とした大谷吉継の祟りです。秀秋の決断によって戦局が大きく動いたことから、吉継の怨念が秀秋を苦しめたという物語が、後世に語り継がれてきました。

もちろん、秀秋の死が祟りによるものだったと確認できる史料があるわけではありません。歴史上確認されているのは、秀秋が1602年に21歳で亡くなったという事実です。一方で、その早すぎる死に関ヶ原の因縁を重ねた伝承が残っていること自体が、この場所に刻まれた物語のひとつといえるでしょう。

関ヶ原で大きな決断をした人物が、そのわずか2年後に若くして亡くなった。その事実に、人々は「なぜなのか」という物語を重ねたのかもしれません。

黄金が眠るという埋蔵金伝説

岡山城には、もうひとつ興味深い伝説があります。それが、宇喜多秀家が莫大な黄金をどこかに隠したという埋蔵金伝説です。

関ヶ原の敗戦によって領地を失い、八丈島へ流されることになった秀家。その波乱に満ちた人生と結びつくように、黄金を隠したという話が伝えられてきました。なかでも、鬼門にあたる北東の石垣周辺に黄金が眠っているという話も残されています。

もちろん、現在までにその黄金が発見されたわけではありません。それでも、黒い天守を見上げながら「どこかに黄金が眠っているのかもしれない」と想像すると、歴史の舞台が少し身近に感じられるのではないでしょうか。

そして実際に、宇喜多秀家の時代の金箔瓦が確認されているという事実もあります。埋蔵金とは別の話ですが、当時の岡山城が金の装飾を用いた華やかな姿だったことを示す手がかりになっています。

石垣に残る、城主たちの時間

岡山城を訪れたとき、ぜひ天守だけでなく石垣にも目を向けてみたいところです。

岡山城の石垣には、築かれた時代による違いが見られます。宇喜多秀家が築いた石垣に、小早川秀秋が後から石垣を継ぎ足した場所もあり、その後の池田氏の時代にも整備が続けられました。現在の石垣は、城主が変わるたびに少しずつ姿を変えてきた歴史の重なりでもあります。

さらに、現在の天守は戦国時代からそのまま残っている建物ではありません。かつての天守は1945年の岡山空襲で焼失し、現在の天守は1966年に再建されたものです。2022年には大規模な改修を終えて、現在の姿で公開されています。

それでも、天守が失われたからといって、ここで積み重なった歴史まで失われたわけではありません。石垣や城跡には、宇喜多氏、小早川氏、池田氏と、時代ごとの城主がこの場所に残した痕跡が今も見つけられます。

岡山城を訪れると、景色が少し違って見える

岡山城には、宇喜多秀家が築いた大きな城と城下町、関ヶ原によって大きく変わった運命、21歳で亡くなった小早川秀秋、そして埋蔵金や祟りをめぐる伝承があります。

黒い天守を見れば、その美しさに目を奪われますが、少し視点を変えて石垣や城跡を眺めてみると、そこには一人の大名だけではなく、戦国から江戸へと時代が移っていく過程が刻まれていることに気づきます。

岡山城を訪れたときは、黒い天守の姿だけでなく、そこに重なった人々の歴史にも目を向けてみてください。その歴史を知れば、同じ景色でも少し違って見えてくるかもしれません。

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