【金刀比羅宮】大物主神から「こんぴらさん」へ続く信仰の歴史

香川県琴平町にある金刀比羅宮は、「こんぴらさん」の愛称で親しまれています。象頭山の中腹に鎮座し、御本宮まで785段の石段が続くことで知られていますが、この場所には、単なる名所紹介では語りきれない長い物語があります。
その始まりに登場するのが、大物主神です。やがて讃岐へ流された崇徳天皇の物語が重なり、さらに神仏習合の時代を経て「金毘羅大権現」という信仰が形づくられていきました。では、なぜこの場所にこれほど大きな信仰が生まれ、全国から人々が訪れる「こんぴらさん」になったのでしょうか。
金刀比羅宮は、なぜこの場所にあるのか
現在の金刀比羅宮は、琴平山とも呼ばれる象頭山の中腹に鎮座しています。御本宮は海抜251メートル、785段目の石段の先にあり、そこからは讃岐平野や瀬戸内海を望むことができます。
ところが、金刀比羅宮の由緒をたどると、現在とは異なる土地の姿が語られています。公式の由緒では、古い伝承として、神話の時代の琴平周辺は海岸で、琴平山は瀬戸内海に浮かぶ島だったとされ、そこに大物主神が宮を営んだという物語が紹介されています。
もちろん、これは神話や社伝に基づく伝承であり、現在の地形をそのまま歴史的事実として示すものではありません。それでも、この物語を知ると、金刀比羅宮が古くから海と深く結びついてきた理由が少し見えてきます。

大物主神が残した、金刀比羅宮の古い物語
金刀比羅宮では、古くから大物主神が祀られてきました。現在も御本宮の御祭神として崇徳天皇とともに祀られ、農業・殖産・医薬・海上守護など、幅広い神徳を持つ神として信仰されています。
この大物主神と琴平の土地を結びつけるのが、神話の時代にまつわる伝承です。金刀比羅宮が紹介する資料では、大物主神がこの地の地勢を利用して山上に行宮を造り、そこを国づくりの拠点としたという物語が語られています。そして、その行宮の跡に神霊を鎮め祀ったのが金刀比羅宮につながったとされています。
ここでいう行宮とは、神や天皇などが一時的に滞在するための宮を指します。現在の金刀比羅宮から想像すると、長い石段を上った山の中に神の宮が営まれたという物語は、どこか不思議にも感じられます。
しかし、象頭山は古くから瀬戸内海を行き交う人々にとって目印となる山でもありました。大物主神の伝承と、海を望むこの土地の特徴が重なったことが、後の「海の神様」としての信仰にもつながっていったのでしょう。

崇徳天皇が加わり、物語に新たな一面が生まれる
金刀比羅宮の歴史を語るうえで、大物主神と並んでもう一人欠かせない存在がいます。それが、平安時代末期の第75代天皇、崇徳天皇です。
讃岐へ流された崇徳天皇
1156年の保元の乱に敗れた崇徳天皇は讃岐国へ流され、1164年にこの地で崩御しました。金刀比羅宮の由緒では、讃岐にいた崇徳天皇が金毘羅大権現を崇敬し、境内の古籠所に参籠したことや、その付近を行宮としたことが伝えられています。
そして崇徳天皇が崩御した翌年の1165年、金毘羅大権現は象頭山に神霊を迎え、御本社の相殿に崇徳天皇を奉斎したとされています。現在も大物主神と崇徳天皇が御本宮の御祭神として並んでいるのは、この出来事につながっています。
崇徳天皇には、死後に怨霊として恐れられたという伝説も残されています。そのため、金刀比羅宮には大物主神という古い神の物語だけでなく、一人の天皇の悲劇と、その御霊を鎮める信仰という別の物語も重なっていきました。

「金毘羅大権現」と呼ばれた時代
その後、金刀比羅宮の歴史は、神道だけでは語れない時代へ入ります。
中世には神仏習合が広がり、本地垂迹説の影響を受けて、この場所は「金毘羅大権現」と呼ばれるようになりました。明治時代に神仏分離が行われるまで、現在の金刀比羅宮は神道と仏教が重なり合う信仰の場だったのです。
この「金毘羅大権現」という名前が、現在の「こんぴらさん」という呼び名につながっています。今では神社として知られる場所ですが、その歴史をさかのぼると、神と仏の信仰が一つの場所に重なっていた時代があったことが分かります。
そして戦国時代から近世にかけて、この信仰を支える人物も現れました。金刀比羅宮の歴史では、別当を務めた宥盛が荒廃した金毘羅大権現の再興に尽力し、後の信仰の発展に大きな役割を果たしたとされています。
さらに、金刀比羅宮の公式由緒では、元亀4年(1573)の改築や、その後の長宗我部元親による再営などを経て、1659年には高松藩主・松平頼重によって社殿が改築されたことが記されています。現在の御本宮の社殿は、さらに1878年の改築によるものです。

江戸時代、「こんぴら参り」が全国へ広がった
金刀比羅宮の歴史を大きく変えたのが江戸時代です。
全国的に航路が発達するなかで、金毘羅大権現は海上安全を願う人々から厚い信仰を集めるようになりました。さらに各地に「金毘羅講」と呼ばれる信仰の集まりが生まれ、遠く離れた地域からも参拝者が訪れるようになります。
当時の庶民にとって、遠方への旅は現在ほど簡単ではありませんでした。それでも「一生に一度はこんぴら参り」と言われるほど人気が高まり、伊勢神宮への「お伊勢参り」と並ぶ、一生に一度の憧れの旅として知られるようになったのです。
こうして金刀比羅宮は、地域の人々だけが訪れる信仰の場から、全国の人々が願いを託して目指す場所へと変わっていきました。
門前町もその影響を受けて発展し、現在も琴平には、当時の「こんぴら参り」の賑わいを伝える建物や文化が残されています。天保6年(1835)に建てられた旧金毘羅大芝居、通称「金丸座」も、その歴史を伝える存在の一つです。

人の代わりに犬が向かった「こんぴら参り」
江戸時代の金刀比羅宮には、もう一つ興味深い習俗が残されています。それが「こんぴら狗」です。
遠方に住んでいたり、さまざまな事情で自分自身が参拝できなかった人の代わりに、犬に参拝を託したと伝えられています。犬の首には飼い主の名前や初穂料、道中の費用などを入れた袋が掛けられ、旅人から旅人へと託されながら金毘羅大権現を目指しました。
犬が一匹で長い旅をしたというより、道中の人々が世話をしながら次の旅人へ託していったとされるところに、この習俗の面白さがあります。
少し微笑ましい話にも見えますが、その背景にあるのは、自分が行けなくても、誰かに託してでも参拝したいという人々の願いです。金刀比羅宮がどれほど遠方の人々からも信仰されていたのかを感じさせる、江戸時代らしい物語と言えるでしょう。

785段の先で、金刀比羅宮の物語を感じる
明治時代になると、政府の神仏分離政策によって金毘羅大権現は神社へと改められ、1868年に現在の「金刀比羅宮」という名称になりました。長く続いた神仏習合の時代が終わり、現在につながる姿が形づくられていきます。
それでも、金刀比羅宮に残る物語まで消えたわけではありません。
大物主神がこの地に宮を営んだという古い伝承。讃岐へ流された崇徳天皇の悲劇。そして神仏習合を経て生まれた金毘羅大権現への信仰と、江戸時代に全国から人々が集まった「こんぴら参り」。
金刀比羅宮は、一つの時代だけで生まれた場所ではありません。
それぞれの時代に生きた人々が、この場所に異なる願いを重ね、その積み重ねが現在の「こんぴらさん」を形づくってきました。
御本宮まで続く785段の石段を上り、そこから瀬戸内海を眺めるとき、目の前にあるのは単なる山の景色ではありません。はるか昔の神話から、天皇の物語、神仏習合、そして江戸時代の人々の旅まで、長い時間の中で積み重ねられてきた信仰の風景でもあります。
「こんぴらさん」という親しみやすい名前の奥には、大物主神から始まり、時代ごとの人々が受け継いできた物語があります。
その背景を知ってから石段を上ってみると、同じ景色でも、少し違って見えるかもしれません。


