【名古屋城】家康が築いた巨大な城に残る、意外な伝説

名古屋の街を代表する存在、名古屋城。金の鯱をいただく大天守や、豪華な本丸御殿を思い浮かべる人も多いでしょう。

しかし、名古屋城には「大きくて立派な城」というだけでは語れない物語があります。なぜ徳川家康は、名古屋にこれほど巨大な城を築いたのでしょうか。

そこには豊臣家との緊張が続いていた時代背景、大名たちが築いた石垣、加藤清正にまつわる伝説、金鯱を狙った盗賊の物語がありました。

さらに名古屋城は、1945年の空襲によって大きな被害を受け、一度その姿を失っています。それでも人々は、残された資料をもとに城の姿を後世へ伝えようとしてきました。

この記事では、名古屋城を「観光地」としてではなく、400年以上にわたって受け継がれてきた物語の舞台としてたどります。

なぜ、家康は名古屋に巨大な城を築いたのか

名古屋城の物語を知るには、まず「なぜ名古屋だったのか」を知る必要があります。現在の名古屋城が築かれる以前、この地域には「那古野城」と呼ばれる城がありました。

さらに江戸時代の初めには、尾張の中心として清須城が使われていました。しかし徳川家康は、清須から新しい城へ拠点を移すことを決めます。

その背景には、地形や交通の問題に加えて、徳川家が東海道の西側を守るうえで、名古屋の場所が重要だったことがあります。名古屋城は、単なる大名の居城ではなく、徳川家の西方を支える重要な城として計画されたのです。

名古屋城の前にあった那古野城

現在の名古屋城が建つ地域には、戦国時代から「那古野城」が存在していました。この城には今川氏や織田氏が関わり、織田信秀が城を手に入れた後には、若き日の織田信長もここに住んでいたとされています。

その後、信長が清須へ移ると那古野城はやがて廃城となりました。そして時代が大きく変わった後、徳川家康によって同じ地域に巨大な名古屋城が築かれることになります。

つまり名古屋城は、何もない土地に突然現れた城ではありません。戦国時代の記憶が残る土地に、徳川の時代を象徴する新しい城が築かれたのです。

清須から名古屋へ移された城下町

名古屋城の築城とともに行われたのが、清須から町ごと移す「清須越」です。武家や町人、寺社などが移され、現在の名古屋の町の基礎がつくられていきました。

城だけを新しく造ったのではなく、城を中心とした新しい都市そのものをつくったという点も、名古屋城の大きな特徴です。

現在の名古屋の街を歩いていると、名古屋城とは少し離れた場所にも、清須越に由来する寺社や町名などを見ることがあります。名古屋城の物語は、城の中だけで完結しているわけではありません。

豊臣家との緊張の中で築かれた城

名古屋城の築城が始まったのは1610年です。関ヶ原の戦いから、まだ10年しか経っていませんでした。

徳川家康はすでに江戸幕府を開いていましたが、大坂には豊臣秀頼を中心とする豊臣家が残っています。やがて1614年に大坂冬の陣、翌1615年には大坂夏の陣が起こり、豊臣家は滅亡することになります。

その時代背景を考えると、名古屋城が単なる居城ではなかったことが見えてきます。東海道の要所に巨大な城を築くことは、徳川の支配を固める意味を持っていたと考えられています。

名古屋城は徳川家康の九男、徳川義直の居城となりました。尾張徳川家は御三家の一つとなり、名古屋城はその後、長く尾張徳川家の中心として存在することになります。

名古屋城を造った武将たちと巨大な石垣

名古屋城を歩いていると、天守や本丸御殿に目が向きます。しかし、城の歴史を感じるなら、巨大な石垣にも注目したいところです。

名古屋城の築城には、加藤清正や黒田長政、福島正則など、多くの大名が参加しました。各地の大名を動員して城を築く「天下普請」によって、巨大な城郭が短期間で造られていったのです。

石垣には、担当した大名を示すと考えられている刻印も残っています。巨大な石を一つずつ運び、積み上げた人々の存在を想像すると、名古屋城の見え方も少し変わってきます。

加藤清正が担当した天守台

築城に参加した武将の中でも、特に有名なのが加藤清正です。清正は熊本城などの築城にも関わった、石垣づくりの名手として知られています。

名古屋城では、天守台の石垣を担当しました。巨大な石を組み合わせて造られた天守台には、清正が築城に関わった痕跡を見ることができます。

名古屋城の巨大な天守を支えていたのは、華やかな金鯱だけではありません。地中に近い場所で城を支え続ける巨大な石垣こそ、築城当時の技術を今に伝える存在なのです。

「清正石」は本当に清正が運んだ石なのか

名古屋城には、「清正石」と呼ばれる巨大な石があります。名前だけを聞けば、加藤清正が運んだ石だと思ってしまいます。

ところが、この石がある石垣を担当したのは黒田長政側だったとされています。そのため、清正がこの石を運んだという話は、史実そのものではなく、後世に生まれた説話として紹介されています。

それでも現在まで「清正石」という名前が残っているのは興味深いところです。実際に築いた人物と、後世に語り継がれた人物が違っていても、物語は名前として場所に残ることがあります。

石を運ぶ清正の姿を伝える逸話

加藤清正には、名古屋城の築城中に大きな石の上に乗り、石を曳く人々を励ましたという逸話も伝えられています。

巨大な石を大勢の人間が綱で引き、掛け声を合わせながら運んでいく姿は、現代から見ると想像するだけでも迫力があります。

実際の工事現場がどこまでこの逸話の通りだったのかは別として、こうした話が残ること自体が、加藤清正が「石垣の名手」として人々の記憶に強く残った証なのかもしれません。

加藤清正にまつわる「黄金水」の伝説

名古屋城には、加藤清正にまつわるもう一つの物語があります。それが「黄金水」と呼ばれる井戸の伝説です。

大天守の地下にある井戸の水が濁っていたため、清正が黄金を投げ入れたところ、水が澄んだという伝説が残っています。

豪快な武将として知られた加藤清正なら、黄金さえ惜しまず井戸に投げ入れそうだ。そんな人物像とも重なるためか、この話は長く語り継がれてきました。

黄金水の物語を知っていると、名古屋城を歩くときにも、普段なら何気なく通り過ぎる井戸に少し興味が湧いてきます。城に残る物語は、目立つ天守だけでなく、ひっそりとした場所にも宿っているのです。

名古屋城の象徴「金鯱」にまつわる物語

名古屋城といえば、やはり金鯱です。天守の大棟に輝く一対の鯱は、現在でも名古屋を代表するシンボルの一つになっています。

金鯱が載せられたのは、名古屋城の天守が完成した1612年ごろです。徳川家の威光を示す存在でもあり、その豪華さは城そのものの権威を象徴していました。

ところが、その輝かしい金鯱には、盗難をめぐる少し意外な物語があります。

柿木金助と「凧で金鯱を盗む」伝説

江戸時代、名古屋には柿木金助という盗賊がいました。後世、この人物を主人公として、金鯱を盗む物語がさまざまな形で語られるようになります。

その中でも有名なのが、巨大な凧に乗って天守へ近づき、金鯱の鱗を盗んだという話です。

もちろん、これは後世に広まった伝説として知られる物語です。しかし面白いのは、金鯱の盗難そのものが完全な空想ではなかったことです。

金鯱の鱗は実際に盗まれていた

金鯱は、その価値の高さから実際に盗難の標的になりました。江戸時代から明治時代にかけて、金鯱の金が削り取られる事件が起きています。

つまり、「金鯱を盗む」という物語の背景には、本当に金を狙った人々がいたという歴史があります。

凧に乗って盗むという大胆な物語と、実際に起きた盗難事件。この二つが重なったことで、金鯱は単なる城の装飾を超えて、さまざまな物語を生む存在になったのかもしれません。

金鯱もまた、時代に翻弄された

金鯱は常に同じ姿で輝き続けたわけではありません。尾張藩の財政事情などによって、金の一部が取り替えられたり、改修されたりした時期もありました。

豪華な金鯱は、徳川家の権威を象徴する一方で、時代によっては「価値のある金」として見られることもあったのです。

それでも名古屋の人々にとって、金鯱は名古屋城そのものを象徴する存在として残っていきました。

一度は焼け落ちた名古屋城

江戸時代を通じて尾張徳川家の居城だった名古屋城は、長い間この地域の中心であり続けました。

本丸御殿は1615年に完成し、その後は将軍が上洛する際の宿泊所としても使われています。三代将軍・徳川家光の上洛に備えて増築されるなど、尾張徳川家の格式を示す場所でもありました。

しかし、名古屋城を最後に大きく変えたのは、戦国時代の戦いではありませんでした。1945年5月14日、名古屋への空襲によって天守や本丸御殿など、多くの建物が焼失します。

400年以上続いてきた名古屋城の姿が、一夜にして大きく失われた瞬間でした。

それでも名古屋城は、もう一度よみがえった

名古屋城の物語がここで終わらなかったのは、失われる前の姿を伝える資料が残されていたからです。

戦前には名古屋城の建物について詳細な実測調査が行われ、700枚を超えるガラス乾板写真も残されました。本丸御殿についても、多くの実測図や古写真、障壁画が保存されていました。

1959年には、市民からの寄附によって天守が再建されます。その後、本丸御殿も残された史料をもとに復元が進められ、2018年に全体が完成しました。

現在の名古屋城は、単純に「400年前からそのまま残っている城」ではありません。一度失われ、それでも人々が残そうとしたことで、再び姿を取り戻した城なのです。

名古屋城を訪れるとき、見てほしい「物語の跡」

名古屋城には、巨大な天守や金鯱、本丸御殿など、目を引く場所が数多くあります。

けれども、この記事で紹介した物語を知ってから歩いてみると、少し違ったものが見えてくるかもしれません。

家康がこの場所に城を築こうとした理由。清須から町ごと移された人々の暮らし。大名たちが競うように築いた石垣。そして加藤清正の名が残る「清正石」。

さらに、黄金を井戸に投げ入れたという「黄金水」の伝説や、凧に乗って金鯱を狙った柿木金助の物語。その一方で、金鯱の鱗が実際に盗まれたという歴史も残っています。

最後には、空襲によって城が焼け、それでも人々がその姿を後世へ残そうとしました。

こうして見ると、名古屋城は一つの建物ではありません。家康の決断、武将たちの築城、人々が生み出した伝説、戦争による喪失、そして再生までが積み重なった場所です。

名古屋城を訪れたとき、天守を見上げるだけでなく、石垣の大きな石や刻印、本丸御殿、金鯱にも目を向けてみてください。

そこには、400年以上前に城を築いた人々の姿と、その後の時代に生まれたさまざまな物語が重なっています。

物語を知ってから見る名古屋城は、ただ「大きくて立派な城」ではありません。

一度失われても、もう一度その姿を残そうとされた城。

そう思って歩いてみると、いつもの名古屋城の景色も、少し違って見えるかもしれません。

知られざる物語を、動画でもご覧ください

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