【霧島神宮】なぜ火山に何度も焼かれても、祈りは残ったのか

鹿児島県霧島市にある霧島神宮は、鮮やかな朱色の社殿と深い森に囲まれた、南九州を代表する古社です。現在の美しい社殿だけを見ると、この神社がどれほど長い時間をかけて現在の姿になったのかは、なかなか見えてきません。

霧島神宮は、もともと現在の場所に建ち続けてきたわけではありません。火山の噴火によって社殿を失い、場所を移し、それでも再び祈りの場が築かれてきた歴史があります。

その背景にあるのが、神が降り立ったと伝えられる山と、そこに生きてきた人々の信仰です。今回は、霧島神宮の建物だけではなく、なぜこの場所に神社があり、どのような物語が現在まで残されているのかをたどってみます。

霧島神宮は、なぜこの場所にあるのか

霧島神宮の始まりは、6世紀ごろ、欽明天皇の時代に創建されたと伝えられています。現在の社殿が建つ場所からさらに山へ目を向けると、霧島神宮がなぜこの土地にあるのか、その理由が少しずつ見えてきます。

霧島神宮の主祭神は、天孫降臨の神として知られる邇邇芸命(ニニギノミコト)です。神宮の由緒では、邇邇芸命が天照大神の神勅を受け、三種の神器と稲穂を携えて高千穂峰に天降ったと伝えられています。これは神話の世界の物語ですが、現在の霧島神宮の信仰を理解するうえで重要な由来となっています。

つまり霧島神宮は、単に「昔からこの場所にあった神社」なのではありません。神が降り立ったと伝えられる高千穂峰を中心に、霧島という土地そのものが信仰の舞台になっていったのです。

しかも、その場所は人間にとって決して穏やかな土地ではありませんでした。霧島連山は火山活動が続く地域であり、古くから噴火と向き合ってきた土地でもあります。

天孫降臨の舞台・高千穂峰と霧島神宮

霧島神宮の物語を語るなら、高千穂峰を外すことはできません。高千穂峰は、邇邇芸命が天から地上へ降り立った場所の一つと伝えられる霊峰で、山頂には現在も「天の逆鉾」と呼ばれる鉾が残されています。

この天の逆鉾は、邇邇芸命が降臨した際に突き立てたものと伝えられており、霧島を象徴する存在の一つになっています。もちろん、神話に登場する邇邇芸命によって実際に突き立てられたということを、歴史的事実として確認できるわけではありません。

それでも、「神が降り立った場所」という物語が、山や鉾という具体的なものと結びついて残っているところに、霧島の面白さがあります。霧島神宮から高千穂峰へ視線を向ければ、神話の舞台と現在の神社が一つの風景の中につながって見えてきます。

そして、その神聖な場所には、もう一つの大きな物語がありました。霧島の信仰は、火山という人の力ではどうにもならない自然と、長く向き合うことにもなったのです。

霧島神宮を襲った火山と、繰り返された再建

霧島神宮の歴史を知ると、「なぜ現在の場所に神社があるのか」という疑問も見えてきます。その答えには、霧島山の噴火が深く関係しています。

788年、最初の大きな転機

もともとの霧島神宮は、現在の場所ではなく、高千穂峰と御鉢の間にある脊門丘(せとお)にあったと伝えられています。しかし、788年の御鉢の噴火によって社殿が焼失したとされ、その後、950年ごろに性空上人によって高千穂河原へ再興されたと伝えられています。

現在、その場所には霧島神宮の元宮があり、かつての信仰の場所を伝えています。つまり現在の霧島神宮だけを訪れていると気づきにくいのですが、霧島神宮には「かつての場所」も残っているのです。

1234年、再び失われた社殿

ところが1234年、霧島山で大きな噴火が起こり、高千穂河原にあった社殿や僧坊寺も焼失したとされています。それでも信仰そのものが失われたわけではなく、その後も霧島で祈りを続けるための場所が整えられていきました。

やがて1484年には、真言宗の僧・兼慶上人が島津忠昌の命を受け、現在の場所に社殿などを再興したと伝えられています。つまり霧島神宮は、一度建てられて現在まで残った神社ではなく、災害によって場所と姿を変えながら受け継がれてきた神社なのです。

その後も火災による焼失があり、1715年には島津吉貴によって現在の社殿が造営されました。現在私たちが見る霧島神宮の姿は、この時代に築かれたものを中心として受け継がれています。

こうして歴史を振り返ると、霧島神宮には「建てる」という出来事だけではなく、失うたびに、もう一度祈りの場所をつくるという繰り返しがありました。それは霧島という土地で、人々が長い時間をかけて信仰を受け継いできたことの表れともいえるでしょう。

霧島に残る「七不思議」は何を物語るのか

霧島神宮の周辺には、「霧島七不思議」と呼ばれる伝承も残されています。その内容は、いずれも霧島の自然や神秘と結びついたものです。

誰も種をまいていないのに自然に稲が生えるという「蒔かずの種」や、岩のわずかな隙間に文字のようなものが刻まれている「文字岩」。さらに、季節になると水が湧き出す「御手洗川」、一度水が途切れたあと再び流れ出す「両度川」、岩穴から風が吹き出す「風穴」などがあります。

亀の姿に似た「亀石」には、神様との約束を破った亀が岩にされたという伝承があり、夜中に神楽の音が聞こえるという「夜中の神楽」も語り継がれてきました。

これらを、すべて不思議な現象としてそのまま受け取る必要はありません。大切なのは、昔の人々が霧島の自然を見て、そこにどんな意味を感じ、どのような物語を残したのかということです。

水が湧く、岩に文字のようなものが見える、山の中に稲が生える、夜に音が聞こえる。現代なら自然現象として考えることでも、昔の人々にとっては、神々の世界とつながる出来事だったのかもしれません。

霧島七不思議は、霧島の自然そのものが信仰と物語の舞台になっていたことを伝えているようにも見えます。

坂本龍馬も登った高千穂峰

霧島の物語には、神話の神々だけではなく、幕末の人物も登場します。その人物が、坂本龍馬です。

1866年、龍馬は妻のお龍とともに薩摩を訪れ、高千穂峰にも登りました。二人が霧島を訪れたことは、龍馬が姉の乙女に宛てた手紙にも残されており、霧島市の資料によると、二人は高千穂峰に登った後、華林寺の宿坊に泊まったとされています。

ここで龍馬が見たものの一つが、天の逆鉾です。神話の時代から伝えられてきたとされる山頂の鉾を、幕末を生きた一人の志士が実際に目にしたわけです。

龍馬は姉への手紙の中で天の逆鉾について触れており、その記述からも、二人がこの不思議なものに強い印象を受けたことがうかがえます。

こうして考えると、高千穂峰という一つの山には、神話の物語と幕末の人物の記憶が重なっていることが分かります。霧島を歩くということは、単に自然の中を歩くことではなく、時代の違う物語を同じ風景の中でたどることでもあるのです。

国宝になった現在の霧島神宮

現在の霧島神宮を訪れると、まず目に入るのは、森の中に建つ鮮やかな朱色の社殿です。1715年に島津吉貴によって造営された現在の社殿には、極彩色の彫刻や絵画など、薩摩地方らしい華やかな意匠が施されています。

特に本殿には龍や麒麟などの彫刻が施され、内部にも「二十四孝図」などの絵画が描かれています。長い歴史を持つ霧島神宮ですが、現在の社殿は古いだけではなく、江戸時代の建築や装飾の美しさを今に伝える建物でもあります。

そして2022年、本殿・幣殿・拝殿などの社殿が国宝に指定されました。南九州を代表する社寺建築として、その建築的な価値が高く評価されたものです。

ただ、霧島神宮の魅力は、豪華な建築だけではありません。現在の社殿の下には、ここへ至るまでに移り変わってきた場所の歴史があり、その先にはかつての神宮があった場所や、高千穂峰へと続く物語があります。

現在の霧島神宮は、一つの建物ではなく、長い時間をかけて積み重なった信仰の物語の一地点として見ることもできるのです。

霧島神宮を訪れると、景色が少し違って見える

霧島神宮を訪れると、まず目に入るのは、深い森の中に建つ美しい社殿でしょう。参道には石段が続き、境内に入ると朱色の建物と周囲の緑が印象的に目に入ります。

けれど、霧島神宮の物語を知ってから歩くと、見えるものは少し変わってきます。この場所には、最初から現在の社殿があったわけではなく、高千穂峰に近い場所で始まった信仰が、噴火によって場所を移し、再び失われながらも人々によって受け継がれてきました。

その周囲には霧島七不思議が残り、高千穂峰には天孫降臨の物語と坂本龍馬の足跡があります。そして今、私たちが見るのが、1715年から受け継がれてきた社殿です。

霧島神宮に残っているのは、国宝に指定された美しい建物だけではありません。神話、火山、再建、伝承、そしてそこを訪れた人々の記憶が、長い時間をかけて重なり合い、今の霧島という風景をつくっています。

実際に霧島神宮を訪れたなら、社殿の美しさを見るだけでなく、その向こうにある高千穂峰や、かつて神宮があった場所にも目を向けてみたくなります。

そこに残る物語を知ってから眺める霧島の景色は、きっと少し違って見えるはずです。

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