【五稜郭】なぜ星形?幕末最後の戦いに残された物語

函館を代表する歴史の舞台、五稜郭。上空から見ると、きれいな星形をした特徴的な姿が目に入りますが、これは単なるデザインではありません。幕末の日本が外国との関係を迫られていた時代に、新しい防衛施設として造られた、当時としては非常に珍しい城郭でした。
しかも五稜郭は、完成してからわずか数年で幕府が終わり、その後には戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の舞台になります。現在は桜の名所としても知られる静かな公園ですが、ここには幕末の大きな変化を見つめてきた場所ならではの物語が残されています。
五稜郭はなぜ星形に造られたのか?
五稜郭の大きな特徴といえば、やはり五つの角を持つ星形の姿です。では、なぜ普通の城のような四角形ではなく、このような形が選ばれたのでしょうか。
その理由は、西洋式の築城術を取り入れた防衛構造にあります。当時のヨーロッパでは、火砲の発達に対応するため、敵から攻撃されにくく、逆にこちらから広い範囲へ砲撃できるような城郭が造られていました。五稜郭もこうした考え方を取り入れ、土塁の角を突き出すことで、死角を減らしながら周囲を守る構造になっています。
実は当初の計画では、五つの角に加えて半月形の防御施設である「半月堡」を5か所に設ける案もありました。しかし、建設費の問題から4か所が削られ、現在のように南西側に1か所だけ残る形になりました。つまり、現在私たちが見る五稜郭の姿は、当初の計画がそのまま完成したものではなかったのです。

五稜郭が造られたのは、黒船来航の時代だった
五稜郭の誕生を知るには、1853年のペリー来航まで時代を戻す必要があります。翌1854年、幕府はアメリカと日米和親条約を結び、下田と箱館の開港を決定しました。外国船がやって来るようになったことで、幕府には蝦夷地の統治だけでなく、外国との交渉や海岸防備まで担う新しい拠点が必要になったのです。
そこで設けられたのが箱館奉行でした。当初の奉行所は函館山のふもとに置かれていましたが、海から攻撃を受ける危険性があり、さらに函館山から周辺の役宅などが見渡せてしまうことから、より内陸に新しい奉行所を築く計画が進められます。これが、後の五稜郭につながっていきました。
つまり五稜郭は、最初から「城を造ろう」として生まれたわけではありません。外国との関係が大きく変わり始めた幕末の日本で、箱館を守り、蝦夷地を統治するための新しい役所と防衛施設として計画された場所だったのです。

五稜郭を設計した武田斐三郎とは?
五稜郭を語るうえで欠かせない人物が、蘭学者であり兵学者でもあった武田斐三郎成章です。箱館奉行の支配下にあった諸術調所の教授役を務めていた武田は、西洋の知識を学びながら、五稜郭や弁天岬台場の設計を担当しました。
西洋の築城術を学んだ蘭学者
武田斐三郎が西洋式の築城術を取り入れるきっかけの一つとなったのが、1855年に箱館へ来航したフランス軍艦の軍人から、西洋式の台場や土塁について教えられたことでした。こうした知識をもとに、従来の日本の城とは異なる、新しい防衛施設の設計が進められていきます。
当時の日本では、まだ西洋式の城郭を実際に築くこと自体が珍しい時代でした。武田は海外の軍事技術をそのまま持ち込むのではなく、日本の地形や幕府の役所としての機能を考えながら、五稜郭という独特の形へとまとめていったのです。
7年かけて完成した「新しい城」
五稜郭の工事が始まったのは1857年で、まずは堀を掘り、土を盛り上げて星形の土塁を築く作業が進められました。その後、郭内に役所や長屋、蔵などの建物が造られ、約7年の歳月をかけて1864年に完成します。
同じ年の6月には、箱館奉行所が函館山のふもとから五稜郭へ移され、ここが蝦夷地の統治や外国との交渉、海岸防備などを担う政治的な中心となりました。現在復元されている箱館奉行所も、当時の五稜郭を知るうえで重要な存在です。
ところが、五稜郭が完成してからわずか3年後の1867年、大政奉還によって徳川幕府は終わりを迎えます。幕府のために造られた新しい城郭は、完成したばかりの時期に、その存在する理由そのものを大きく変えられることになりました。

五稜郭が完成してわずか数年、幕府が終わる
大政奉還後、五稜郭の箱館奉行所は新政府へ引き継がれます。しかし、幕府が終わったからといって、北海道での戦いまで終わったわけではありませんでした。1868年、榎本武揚が率いる旧幕府軍が蝦夷地へ渡り、10月には五稜郭を占拠します。
その後、榎本を中心とする旧幕府側の政権が置かれ、五稜郭は今度は新政府軍と戦うための拠点となりました。行政を行うために造られた場所が、数年後には戦場の中心になったのです。
そして1869年、新政府軍の反撃が始まると戦況は次第に旧幕府軍に不利になっていきます。5月には箱館への総攻撃が行われ、弁天岬台場や千代ケ岡陣屋などでも激しい戦闘が続き、最後には五稜郭に立てこもっていた旧幕府軍も降伏することになりました。

土方歳三が最後に戦った五稜郭
この箱館戦争で特に知られている人物が、新選組副長の土方歳三です。土方は旧幕府軍の中心人物として戦い、最後まで新政府軍と戦いました。
しかし、ここは少し注意したいところです。土方歳三が戦死した場所は五稜郭そのものではありません。 1869年5月11日、箱館総攻撃の中で土方は一本木関門から戦場へ向かい、現在の十字街電停付近にあたる場所で銃弾を受けて戦死したと伝えられています。
それでも土方歳三と五稜郭が強く結びついて語られるのは、彼が最後に戦った箱館戦争の中心が、この五稜郭だったからでしょう。星形の土塁を眺めていると、ここが単なる珍しい形の城ではなく、幕府という時代の最後を見届けた場所だったことが分かります。

戦場から公園へ、五稜郭に残されたもの
箱館戦争が終わると、五稜郭は新政府の管理下に置かれます。しかし、その後も役所として使われることはなく、1871年には箱館奉行所をはじめとする多くの建物が解体されました。その後は陸軍の練兵場として使われ、1914年からは市民の公園として利用されるようになります。
現在の五稜郭には、当時の建物がほとんど残っていません。その中で、築造当時の建物として唯一現存しているのが、南西側にある土蔵です。この建物は現在「兵糧庫」と呼ばれていますが、箱館戦争の記憶からいつしかそう呼ばれるようになったものとされています。
一方、五稜郭の中心にある箱館奉行所は、古写真や文献資料、発掘調査などをもとに復元されたものです。2010年に復元が完成し、かつてここで行われていた幕末の政治や行政の姿を、現在の五稜郭で感じられるようになりました。

五稜郭を訪れるなら、星形だけを見ない
五稜郭は、上空から見ると美しい星形をしています。しかし、その形だけを知って帰ってしまうと、この場所が持つ物語のほんの一部しか見ていないのかもしれません。
ここは、黒船来航によって日本の外交と防衛が大きく変わろうとしていた時代に造られ、完成からわずか数年で幕府の終焉を迎え、その後には箱館戦争という幕末最後の戦いの舞台となりました。役所として生まれ、戦場となり、やがて市民の公園へと姿を変えた場所なのです。
今では、堀の水面に木々が映り、春には桜が咲く穏やかな場所として知られています。それでも、星形の土塁や復元された箱館奉行所を眺めながら、その歴史を知ってみると、同じ景色でも少し違って見えてくるかもしれません。
五稜郭に残されているのは、珍しい星形の城郭だけではありません。日本が大きく変わろうとしていた時代に、そこで生きた人々の選択と、その後の歴史そのものが、この場所に残されているのです。



