【大阪城】秀吉が築いた大坂城と徳川再築の物語

大阪の街を代表する大阪城。現在の天守を見上げると、豊臣秀吉が築いた城がそのまま残っているようにも感じますが、実は現在の大阪城と秀吉の大坂城には大きな違いがあります。

現在の大阪城の地下には、豊臣時代の大坂城の石垣など、城郭遺構の一部が眠っているのです。地上に見えている城と、その地下に残るもう一つの大坂城を知ると、大阪城の見え方は大きく変わってきます。

なぜ大阪城の地下に「もう一つの城」があるのか

現在の大阪城は、豊臣秀吉が築いた大坂城をそのまま使っているわけではありません。豊臣家が滅亡した大坂の陣のあと、徳川幕府によって大規模な再築が行われたためです。

豊臣秀吉が大坂城の築城を始めたのは1583年でした。場所は、かつて石山本願寺があった土地で、秀吉はここに巨大な城を築き、天下統一を進めるための重要な拠点としていきました。

ところが1615年、大坂夏の陣によって豊臣家が滅亡すると、豊臣大坂城も焼け落ちることになります。その後、徳川幕府はこの場所に新たな大坂城を築きました。

つまり現在の大阪城は、豊臣時代の城がそのまま残っているのではなく、徳川時代に大規模に造り直された城なのです。

秀吉はなぜ、この場所に大坂城を築いたのか

秀吉が大坂城を築いた場所には、それ以前から大きな歴史がありました。

この地には、戦国時代に石山本願寺が置かれていました。織田信長と長く戦った石山本願寺が退去したあと、秀吉はその跡地に巨大な城を築いていきます。

1583年に始まった築城は急速に進み、1585年には天守が完成しました。その後も城や城下町の整備は続けられ、秀吉の権力を象徴する巨大な城へと発展していきます。

大坂城は単なる住まいではありませんでした。全国から集まった人や物、そして秀吉の権力を集める場所として、大きな役割を果たしていたと考えられています。

黄金に輝く天守や壮大な石垣を備えた大坂城は、秀吉の天下統一を象徴する存在になっていきました。

黄金に輝いた大坂城に残る伝説

黄金水と呼ばれた井戸

大阪城には、現在も「金明水井戸」と呼ばれる井戸があります。

この井戸には、かつて「黄金水」という名前が付けられていました。さらに、秀吉が井戸に黄金を沈め、水を清めたという伝説も残されています。

黄金水という名前からも、秀吉の大坂城が持っていた華やかさや、黄金を好んだ秀吉のイメージが伝わってきます。

ただし、実際の調査では、現在の井戸から豊臣時代のものと確認できる遺物は見つかっていません。黄金を沈めたという話は、あくまで伝説として伝わっているものです。

真田幸村の「抜け穴」伝説

大阪城には、もう一つ有名な伝説があります。それが、真田幸村にまつわる地下の抜け穴です。

大坂冬の陣で活躍した真田幸村には、大坂城から真田丸へ続く地下の抜け穴を作ったという伝承があります。

実際に大阪市内の三光神社には「真田の抜け穴」と呼ばれる場所が残されており、現在も真田幸村と大阪城を結ぶ伝説として知られています。

ただし、大阪城とその穴が実際に地下でつながっていたことが確認されているわけではありません。歴史的な事実と伝説が重なりながら、現在まで語り継がれている物語なのです。

豊臣家の滅亡と大阪城に残る記憶

こうした伝説が残る背景には、大坂城が豊臣家最後の舞台になったという歴史があります。

1614年の大坂冬の陣では、豊臣方と徳川方が激しく戦いました。そして翌1615年の大坂夏の陣によって大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀殿が命を落としたことで、豊臣家は滅亡します。

秀吉が築いた巨大な城は、この戦いによって大きく姿を変えることになりました。

豊臣の大坂城は大坂の陣で姿を消した

豊臣家が滅亡したあと、徳川幕府は大坂城をそのまま放置することはありませんでした。

徳川家康の死後、二代将軍徳川秀忠の命によって、1620年から大坂城の再築が始まります。築城の基本計画には、築城の名手として知られる藤堂高虎も関わりました。

この再築は、単なる修復ではありませんでした。豊臣時代の城を大きく上回る規模で、新たな大坂城を築き直す大工事だったのです。

工事には全国の大名が動員され、いわゆる「天下普請」によって巨大な石垣や城郭が築かれていきました。

こうして完成した徳川期の大坂城は、江戸時代を通じて幕府の重要な拠点として使われることになります。

徳川家康・秀忠はなぜ大阪城を再び築いたのか

豊臣家が滅亡したあとに、徳川幕府があえて大坂城を再築したことには、大きな意味がありました。

大坂は西日本へつながる交通や経済の重要な場所であり、ここに巨大な城を置くことは、幕府の支配を示すうえでも重要でした。

しかも、再築された大坂城は豊臣時代の城とは別物といえるほど大規模に造り直されています。徳川幕府にとって大坂城は、豊臣の記憶が残る場所を、徳川の支配を示す場所へと変えていく意味も持っていたと考えられます。

こうして大坂城は、豊臣秀吉の城から徳川幕府の城へと、その役割を大きく変えていきました。

地下から現れた豊臣の石垣

ところが、地上からは姿を消したと思われていた豊臣時代の大坂城が、思わぬ場所から姿を現します。

1959年、大阪城の地下から石垣が発見されました。現在の地表から約7メートル下にあったこの石垣は、後の調査によって豊臣時代の大坂城に関係する遺構だと考えられるようになりました。

つまり現在の大阪城では、徳川時代に築き直された城の地下に、豊臣時代の大坂城の痕跡が残っているのです。

2025年には「大阪城 豊臣石垣館」も開館し、これまで地中に眠っていた豊臣期の石垣を間近に見ることができるようになりました。

地上にある大阪城だけを見ていると、豊臣秀吉の時代は遠い過去のように感じます。しかし地下に残された石垣を見ると、秀吉の時代から徳川の時代へと移り変わった歴史が、まるで地層のように残されていることが分かります。

現在の大阪城を歩くとき、見えてくるもの

現在の大阪城天守は、豊臣時代のものでも徳川時代のものでもありません。現在の天守は1931年に再建されたもので、戦後の大阪を象徴する存在としても親しまれてきました。

それでも大阪城には、豊臣秀吉が築いた大坂城、豊臣家が滅亡した大坂の陣、そして徳川幕府による再築という、いくつもの時代の記憶が重なっています。

さらに地下へ目を向ければ、豊臣時代の石垣が今も残されています。大阪城は、一つの城が長い年月を生き残ったというより、同じ場所に異なる時代の城が重なっている場所ともいえるでしょう。

天守を見上げるだけなら、そこにあるのは大阪を代表する美しい城です。

しかし、その地下に眠る石垣や、豊臣と徳川をめぐる歴史を知ったあとでは、同じ大阪城でも少し違って見えてきます。

地上に残る徳川の城、その地下に眠る豊臣の城。

大阪城を訪れたときは、目の前にある天守だけではなく、その足元に眠る「もう一つの大坂城」にも思いを向けてみてはいかがでしょうか。

知られざる物語を、動画でもご覧ください

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